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オニール八菜さんのロングインタビュー

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先日見事ブノワ賞に輝いたオニール八菜さん。エトワールに任命される日も近いと目される次世代スター筆頭の彼女ですが、意外と詳しいインタビュー記事は今までなかったと思います。

フランスのCulturekiosqueに、オニールさんのロングインタビューが掲載されていました(英語、Patricia Boccadoro氏による)。非常に興味深い内容でしたので、ご紹介しようと思います。

http://www.culturekiosque.com/dance/inter/hannah_o_neill991.html

子どもの時から夢は、オペラ座で踊ること

「私が覚えている限り昔から、夢はパリ・オペラ座バレエの団員になることでした。パリ・オペラ座バレエは世界で最も美しいバレエ団で、私にとってバレエとは、オペラ座だったのです。私は、手に入れられるすべてのオペラ座のDVDを持っています」。2013年当時、日本で生まれてニュージーランドに住んでいて、オーストラリアバレエ学校で学んだその時20歳のオニール八菜さんは、その夢とは一番下のランクであるカドリーユとして入団することだけではありませんでした。その2年後には彼女はヌレエフ版「白鳥の湖」のオデットをバスティーユで踊りました。さらにそののち、ヌレエフ振付の「ラ・バヤデール」のガムザッティ役で成功をおさめ、世界で最も有名な振付家二人の注目を集めました。世界でもっともヒエラルキーの厳しいパリ・オペラ座バレエで、どうやってこのようなことが起きたのでしょうか?

(このインタビューは、オニールさんがマリインスキー国際フェスティバルで「ラ・バヤデール」のガムザッティ役を踊ってパリに戻った直後に行われたものです)

「東京での幼少時代はごく普通のものでした。二人の兄弟とともに普通の日本人の子どもとして育ち、私にとってはバレエも含まれていましたがスポーツをたくさんやりました。パリ・オペラ座のダンサーは日本ではとても人気があり、私にとってのダンスとはパリ・オペラ座のことだったのです。8歳の時に、ラグビー選手だった父が怪我をしてしまい、ラグビーのコーチになるために故国ニュージーランドのオークランドに家族で帰ることになりました」

「オークランドでは普通の学校に通いながらバレエを続け、13歳の時にパリ・オペラ座学校のオーディションのためにビデオ映像を送りましたが、エリザベット・プラテル校長は特に興味を惹かれなかったようです。入学できなかったのは残念でしたが、私はYAGP(ユース・アメリカ・グランプリ)に出場して賞をもらい、オーストラリア・バレエ学校へのスカラシップを獲得しました」

オニールさんの最初の教師は、元マリインスキー・バレエのプリンシパル、イリーナ・コンスタンティノワで、ワガノワ・メソッドの教師でした。またオーストラリア・バレエ学校では、オーストラリア・バレエの元プリンシパルのリネット・ウィリスと、オーストラリア・バレエ学校ディレクターのマリリン・ロウに師事しました。ロウの下で2009年のローザンヌ国際コンクールに備え、オニールさんは見事優勝しました。オーストラリア・バレエ学校の教育に満足していた彼女はメルボルンで学び続けましたが、ロイヤル・バレエやパリ・オペラ座の公演を観にヨーロッパに旅行しました。

18歳の時のオニールさん

失意の日々

「私はまだパリ・オペラ座バレエに入団したいと思っていたのですが、外部入団試験では4位でまたもや入団できませんでした。でも少し落ち込みながら帰国するためにシンガポールでトランジットをしていたら、ローラン・イレールより電話がかかってきて、期間限定団員の契約のオファーを頂いたのです」

期待に胸を膨らませてオニールさんは、期間契約団員としてパリに引っ越しましたが、フランス語を話せず、せっかくオペラ座にいても舞台にはなかなか立てずに、舞台袖に立っているだけの日々を送っていました。意気消沈していましたが、パリ・オペラ座バレエを彼女が愛していることを理解していた両親に励まされ、再びオペラ座の外部入団試験に挑みます。しかしながら、ここでも正式入団には至りませんでした。あきらめかけていた時、イレールは彼女を「ラ・バヤデール」の3幕に出演する機会を与えました。

「がっかりした気持ちとホームシックは一晩で消え失せ、すべての問題は解決したと思っていました」「でもその時、舞台で転んでしまったんです!今までで最も緊張していたため、脚がその緊張に耐えられなかったのです。こんなことはもう二度と起きないでしょう。心は引き裂かれました。私のキャリアは、始まる前に終わってしまったと思ったのです。でも、ついに2013年に正式に入団できました」

(「ラ・バヤデール」の代役で失敗してしまった時のエピソードが語られている、2013年当時のPointe誌の記事

パリ・オペラ座学校で学んできた生徒たちと競わなければならないことからも、彼女が入団できたことは大きな成果でしたが、オペラ座の昇進試験では2014年にコリフェに昇進し、同じ年にヴァルナ国際コンクールで銀賞を受賞しました。2015年にはスジェ、2016年にはプルミエール・ダンスーズに昇進しました。


正式に入団してからは順風満帆。そしてメソッドの違い

「もうコンクールを受けなくて済むことにはほっとしています。ニュージーランドから来た私は、自分がここにいることを証明しなければならなくて、それは年々厳しいことでした。コール・ド・バレエで踊ることも楽しかったけれども、今はソリストとして役を深めていき、できれば何でも踊れるようになる機会が得られました。一緒に仕事をしたい振付家もたくさんいます」

「すでにピエール・ラコットは私を助けてくれて、カルポー賞を受賞できたのも、彼が審査員にいたからだと思います。彼の「パキータ」と「セレブレーション」を踊るのはとても楽しかったです。またウィリアム・フォーサイスとの仕事は素晴らしい経験でした。彼には信じがたいようなエネルギーがあります。ルドルフ・ヌレエフの古典作品は、ステップは難しいし、ほかのどの版よりもトリッキーですが、すべての作品が大好きです。彼の作品特有の調和をつかんだときは素晴らしい気持ちになります。彼の作品を踊れるようになったら、なんでも踊ることができるという気持ちになります。例えば、マリインスキー・バレエで先週踊った時にそう思いました。マリインスキー・バレエの芸術監督ユーリ・ファテーエフが私を招いてくれてプティパの「ラ・バヤデール」を踊りましたが、あまりにも簡単だったのでズルをしているのではないかと思うほどでした。でもマリインスキーにいることは大きな喜びで、そこでの4日間は魔法のようで意欲もますます高まりました」

オニールさんは、パリでは上半身の全体的な使い方、エポールマンがパリでは異なっていると語りました。フランスのダンサーたちはより洗練されていてフェミニンでエレガントで、細かいところまで注意が行き届いている一方で、脚捌きに重点が置かれています。このメソッドになじむため、彼女を教えているアニエス・ルテステュ始め、教師陣に助けられているとのことです。

オニールさんは、サンクトペテルブルグに続き、モスクワで、ミルピエ振付の 「La Nuit s’Achève(夜の終わり)」をユーゴ・マルシャンと踊り(ブノワ賞ガラ)、その後はニューヨークでエスメラルダのパ・ド・ドゥを踊ります(YAGPガラ)。

ブノワ賞ガラでの「エスメラルダ」(ユーゴ・マルシャンと)

「ローラン・プティ、マッツ・エック、ベジャール、ノイマイヤー、ロビンス、何でも踊りたいのです!特に「ジゼル」は踊りたい。今のこの年齢では、できるだけ挑戦となるような作品を踊ることが大事だけど、今までさんざんしてきた競争には巻き込まれたくありません」

パリでの生活を楽しむ

フランスにやってきたときには、誰も知り合いはおらずフランス語が全く話せなかったオニールさん。でも今はフランス語を流ちょうに話し、魅力的で親しみやすい人柄のためパリにもなじみ、オーストラリアと同じように親しい友人たちもできました。

「パリに住んでいる、おばのいとこもいます。話せる人がいて嬉しかっただけでなく、彼女は現代美術界にいて、展覧会のプレビューに招待してくれるのでとても楽しいです。そのほかでは、オールブラックスの試合を観ることと、友達と出かけることを楽しんでいます」

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日本、ニュージーランド、オーストラリア、パリと様々なカルチャーで育ってきたオニールさん。これからますます活躍の幅は広がりそうです。オペラ座「ジゼル」のミルタ役も好評でしたが、オペラ座らしいエポールマンを身につけるのはなかなか時間がかかりそうという声も一部にはありました。とはいえ、伸びやかな肢体、美しい容姿、強靭なテクニックとエレガンス。今最も上り調子のバレリーナであることは誰もが同意すること。8月には、念願のジゼル役デビューを、マリインスキー・バレエの沿海ステージで果たします。


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